森ヒロコ・スタシス美術館

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館長・長谷川洋行紹介

長谷川洋行

「桜の森の満開の下」初演
フロマダ氏から記念のスコアーを授与される長谷川館長

館長・長谷川洋行が今日に至るまで・・・

■如何に彼は「オペラの怪人」と呼ばれる様になったか    −森ヒロコ−

  1978年、当美術館の前身である。札幌の小さな画廊で、日本初の「スタシス展」が開催された。
以来、今日迄三十年以上、東欧の魅力に取り憑かれ、次々と沢山の画家、彫刻家、そして「ブラチスラバ世界絵本画展」等を日本に紹介、最後に出会ったのが、オペラだった。
ワルシャワ、ブタペスト、プラハ、ブラチスラバと、各地を訪ねる度に、沢山のオペラを見た。始めは、時間つぶしだったのが、その迫力、掛け値なしの楽しさの虜になり、又、日本のオペラの状況との、余りの違いに、持ち前のチャレンジ精神が掻き立てられた。
「このオペラの楽しさを日本に届けたい。」
しかし、相手は国立オペラ団、大変な事は承知で、スロバキア国立オペラ座の総監督、ルドルフ・フロマダ氏と交渉を重ね、1999年、初の日本公演が実現した。
歌手5、6人、伴奏はピアノだけの少人数ながらスバラシイ歌唱力、演技力に、いつも、興奮させられる。
又、十年目の2008年には、長年の夢だった、坂口安吾の小説「桜の森の満開の下」のオペラ化が、同オペラ座との共同制作で完成。本拠地である、バンスカ・ビスリッツァのオペラハウスで初演された。
スロバキアを代表する作曲家、ウラジミル・ゴダール氏が音楽を担当、モダンな、美しい作品に仕上がって居た。

カーテンコール

カーテンコール
(日本公演で)
トスカの一場面

トスカの一場面
(日本公演で)

毎回、日本での公演プログラムに、長谷川の想いが、少々過激な言葉で載る。
歯に衣着せぬ物言いに、賛同する人も居れば、眉をひそめる人も居る。
2009年のプログラムから、長谷川の文章を・・・。

■楽しい、庶民のオペラを    −長谷川 洋行−

  スロバキア国立オペラと日本で初めて行動を共にしたのは、1999年10月である。場所は九州中央山地の小さな山里の農協ホールであった。それ以来毎年公演活動をしているが、2003年からは1月と7月、年2回公演している。ここ5年ほどは1月は横浜と北海道で、7月は九州と北陸で公演している。
  この公演活動を始める前に決断したことは、次の3点である。
1)公演は可能な限り庶民に近場の町の普通のホールで行う。
2)日本の庶民が楽しめる演目を選択し、見ていてわかり易いように工夫する。
3)入場料は低額に設定し、全ての経費をチケットの売上で賄う。
  最近は普通のホールや公会堂とは格の違う音楽や芸術のホールが、町の特別な地域に続々建てられているが、そういう会場で公演するのは、よほど借用条件が好都合でない限り考慮する余地はない。 徹底した経費の節約を必要とするこの活動にとって、使用料が高すぎる。もっと率直に言えば、高いレベルに鍛えられた国立オペラのソリストの凄味のある演技力や歌唱力をもってすれば、どちらのホールで演じようとオペラの質に差は殆どないと思うからである。
  今日、本屋へ行けばオペラの解説書は簡単に入手できる。そこには150前後の演目がオペラの名作として紹介されているが、せいぜいその中の30演目前後が日本の庶民が楽しめるオペラだと考えている。 それはヨーロッパの大衆にとっても大変人気の高いオペラでもある。 そういうオペラをどうしたら日本の普通のホールで、質を落とさずに庶民が深く楽しめるように上演できるか、それがこの活動の根本問題である。本場のオペラを低いレベルに真似るだけで高い入場料を取る、芸のないオペラ歌手には想像すらできないことに違いない。
  横浜の旭区にお住まいのご婦人から、こんな入場料で何時まで続けられるのでしょうかという、激励ともご心配とも受け取れるお電話をいただいたことがある。チケットの売上金だけで収支のバランスをとることの厳しさは、百も承知で言うまでもない。しかし、それでこの12年を綱渡りで乗り切ってきた自信はある。この自信はもちろん、スロバキア国立オペラの途方もない協力と、多くの無償の協力者の善意とから作られたものである。
  日本のオペラの歴史の上でたった一度だけ、オペラが大衆や庶民と接点を持った瞬間がある。 それは今から80年以上前の1920年代、所謂浅草オペラの時代である。
  浅草オペラというのは音楽学校で声楽を専門に勉強したことのない芸人たちが、当時大衆芸能のメッカであった浅草の演芸館を根城に、スッペやオッフェンバックのオペレッタから大衆に親しみやすい軽快なメロディーの歌を抜粋し、それに芝居の振り付けをし、更にダンサーの踊りなどを絡ませて、寸劇のように演じたオペラであった。 伴奏音楽は簡単な楽隊編成であったり、ピアノだけであったかもしれない。恋は優し野辺の花よ、など、今でも庶民に愛されている歌は浅草オペラから大ヒットした歌なのである。
  浅草オペラは1923年の関東大震災によって、わずか数年で壊滅した。その後オペラはアカデミーの声楽家の専有物となり、芸術的権威と社会的権威を獲得する代わりに、オペラが本質的に持っている大衆娯楽性を失った。少々歌が上手いだけの、頭でっかちの優等生の、しかも庶民感覚を外れた高額の入場料をとる根無し草のオペラなど、大衆の娯楽性とは別世界の出来事である。
  このオペラ活動は、浅草オペラ以降の日本のオペラの展開から、プラスの方向への影響は何も受けていない。浅草オペラが80年以上の時空を一挙に超えて、現代に繋がったと考えるのが最も自然である。 スロバキア国立オペラの出し惜しみのない協力によって、浅草オペラが何処へ出しても恥ずかしくない一流のオペラに甦ったと思っている。

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